「春宵異聞」 


 其れまでの白と黒の世界に、鮮血の様に紅く、春雷の様に烈しく、華の様に艶やかに。

***

 その街を訪れたのは初めてだった。
 貿易商を営んでいる父に連れられて、挨拶がてらに得意先を回っていたのだ。
 年が明ければ、父は勇退し、会社は名実共に自分のものになる。
 思えば、子供の頃から跡継ぎとして教育を受け、父の仕事を手伝ってきた。
 一人息子を、片時も離さず自分の傍に置いていた父は、得意先との宴会の席でしこたま飲んだ酒に意識を明け渡した。
 宿に送り届けてから、やっと一人の時間を持てる、と夜の散歩に出た。
 父も、仕事も嫌いではない。
 だが、すべてが単調だった。
 幼い頃から勉学も、武道も人並み以上に難なく熟せば熟すほど、世界が色を失っていくのが見えた。
 意に適わぬものが、ない。
 贅沢な悩みだと言われようが、それは確かに自分の悩みだった。

 ――つまらないな。

 何時まで、色のない世界で生き続けていけば良いのだろう。
 そんな事で死ぬ理由もないが、生きる理由も見つからない、すべては、空虚だ。
 凭れている黒い塀の向こうからは、複数の甲高い笑い声と、三味線、笛の音がする。
 胸ポケットから金の懐中時計を出すと、時間を見た。

「戻るか……」

 知らず溜息を吐いて、歩き出す。

「う、わ、わっ」
「ん」

 頭上からした声を見上げると、塀の上から何かが自分に向かって落ちてくる。

 ――……紅い……

 それが人だ、と判ったのは、落ちてきたそれを無意識に受け止めてから数秒後だった。

「……ぉわァ。死ぬか思たわ」

 腕の中で暢気にそう呟いたのは、赤い襦袢を腰紐で辛うじて止めただけの、少年だった。
 短く切った髪に、少し険のある目元が、自分を受け止めた相手をじっと見つめた。

「おーきに、兄さん」
「……ああ」

 俄かに、塀の向こうが騒がしくなる。
 地鳴りの様な怒号が響いた。

「シマァ!何処行きやがったあの馬鹿!客殴り倒して逃げる女郎がどこにいる!」
「やべ」
「君が『シマ』か?」

 へへ、と笑うと「シマ」はぴょん、と腕の中から飛び降りて、持っていた下駄を履く。
 下駄の先をとんとん、と地面に打って、改めて顔を上げた。

「俺がおった事、秘密にしてな」

 呼び止める間もなく、「シマ」は橋の向こうに走り去ってしまった。
 塀の向こうではまだ地鳴りの声が叫んでいる。
 先ほどまで腕の中にあった温もりに、拳を握った。

「……「シマ」……か」

 真田甚と、シマ。
 この日帝都にて、出逢う。


お題:恋煩い症候群様より「春宵異聞」

SugakoSatoh@√310