「降るな」
それが雨の事だと判って、「そうですね」と答えた。
「この街は慣れたか」
「はい」
「港が近いから、華やかだろう。我々のお得意様も多い。これから、頻繁に通う事になるだろうから、しっかり顔を売っておけ」
「はい」
うむ、と頷いて、父はパイプを咥えた。
どこかで食事でもしようという事になり、通りを散策していると、真田さん、と呼び止められた。
「おお、これは、」
「おいでとは聞いておりましたが、やあ、こんな所でお会いできるとは」
「15年振りになりますか。……ああ、これは愚息の甚です。甚、こちらは倉橋子爵だ」
「初めまして。真田甚です」
「や、貴方が……お噂は聞き及んでおりますぞ。帝国大学を主席でご卒業になったとか。お父上も鼻が高いでしょう」
「なんの、まだ洟垂れ小僧ですよ」
「何分若輩者ゆえ、ご指導ご鞭撻をよろしくお願いいたします」
深く一礼をすると、子爵は恰幅のいい腹を揺すって笑った。
父親も、満足そうにしている。
これでいいのだろう。
父の恥になることは何もしていない。
だが、また身体の中の空虚が広がったような気がする。
「宜しければ拙宅においでになりませんか。色々話もお聞きしたい」
「左様ですか。ご迷惑でなければお言葉に甘えるとしましょう。甚」
「いえ……15年振りの積もるお話もございましょう。私がいてはご歓談のお邪魔になります。私は宿に戻りますので」
「そんな、邪魔など」
「いや、これは口下手の類でしてな。気の利いた冗談の一つも言えない。却ってお気を遣わせてしまうでしょう。……では、甚」
「はい。お気をつけて、父上」
二人の背中が見えなくなるまで頭を下げて見送った。
その背中も、消えた後も、白黒の映像がただ目の中に情報として入ってくるだけだ。
いつまでそうしていただろう。
ぽつり、と頬にあたる雨粒が我を戻す。
間を置かず数を増やして髪と言わず肩と言わず濡れ始めた。
流石にずぶ濡れになる趣味はないので、通りを走って、適当な軒を探した。
最近になって敷き詰められたと言う煉瓦道を過ぎて、靴が地面を踏みしめる頃、軒の深い店を見つけた。
するりと軒に身を滑らせて雨雲から隠れると、漸く息をつく。
ポケットからハンケチを取り出して、雨に濡れた身体を申し訳程度に拭った。
「あれえ」
素っ頓狂な声をあげる者がいた。
何事かと振り向けば、目に激しい赤い格子が飛び込んできた。
格子に区切られた四角い枠の向こうにも、また、紅。
「あんたどっかで見た事あんなぁ。あー、昨夜のか」
「……『シマ』」
「濡れたなー。でもまぁあんたくらいの男前やったら、水が滴って丁度ええんちゃう」
格子から四肢を潜らせて、ぶらぶらと揺さぶっている。
流石に今日は襦袢だけではないが、華やかな着物も裾を割って、既にあられもない。
本人は気にした風もなく、笑っていたが、不意にじっと甚を見詰めて黙り込んだ。
「……何か?」
「んん。あんた、眠れてへんのとちゃうか」
唐突な問いに、甚の眉が片方だけ持ち上がる。
その真意を測りかねて甚が黙っていると、首を右に傾げて、格子の一つから顔を覗いてくる。
「なんか、上手く行かん事でもあんの?」
「何故」
「重そうやなぁ、て」
「何、が」
まだ、判らない。
ただ、目の前のシマはとても紅かった。
彼だけ、色づいて見えた。
それが翳ったと思うと、シマの後ろに大柄な男が立っていた。
男は甚に一瞥をくれると、シマの肩を叩いた。
「シマ、客だ」
「えー、誰やもー、雨の日に来る阿呆嫌いやー」
「てめえは晴れの日も曇りの日も同じ事言うじゃねえか。早くしろ」
「待て」
気が付くと、シマの後ろに仁王立ちになっていた楼主と思しき人物に声をかけていた。
「……私の方が先約だ。連れて行かれては、困る」
「え」
「あァん?……そうなのか、シマ」
「……えーと」
甚と黒岩を交互に見ると、シマはぽり、と頬を指で掻いた。
「えっと、うん、まぁ、そう」
甚の背後の空で、春雷が一条、天から駆け降りて行った。
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