だったらもっと早く言えよ、と悪態を吐いて楼主はもう一人の客に謝りに行った。
隔てられた格子の向こうで、雨に濡れた男が立ち尽くしている。
「……つい「そう」とか言うてもたけど、……あんたほんまに俺買う気なん」
およそこういう妓楼に似つかわしくない男に見える。
なんだか入れてしまっていいのか、と言う気持ちになったのだ。
もともと雨宿り程度だと思っていたから、声をかけてしまったと言うのに。
「……入り口はこちらか」
男がそう問うので、シマは格子にくぐらせていた両手足を抜くと、立ち上がって裾を直した。
そのまま離れて、男からその姿が見えなくなる。
少し間を置いて、外に出てきたシマは裸足のまま男の傍に歩み寄ると、じぃと見上げた。
「こっちですよ」
引き寄せた手の平は、雨に濡れて冷たかった。
***
「まずその洋服、脱いで下さい。ちゃんと乾くか知らんけど、帰るまでに何とかさせますわ」
手を引かれて廊下を進み、通された部屋で、その前に指示していたのか手拭いと着替えを下男から受け取った。
襖を閉めて、濡れた男のネクタイに指を掛ける。
「……いや、いい」
「駄目や。あんた風邪引くのは勝手やけど、それが俺買うたからやなんて言われたないねん」
ぴしゃりと言い据えられて仕方なくネクタイを外す。
ベストとシャツを脱いで、シマに渡すと、代わりに手拭いが手渡された。
まだ水滴が滴っていた前髪から顔を拭いていると、背中にも布の感触が伝わる。
濡れた背中をシマがもう一枚の手拭いで拭いてくれていた。
「……ええ身体やなぁ。軍人さんか何か?」
「いや、学生時代に水泳をしていた」
「へえ。水兵さんかと思うた」
「仕事で船に乗ると言う事では、遠くない」
「あぁ、それで」
「何だ」
「海の匂いがしてん」
「……まさか」
この街についてから、港にはまだ戻っていない。
磯の香りがそんな続くはずは、ない。
はは、と背中でシマが笑う。
冗談だったのだろうか。
途中酒を持ってきた下男に、洋服一式を渡して、急ぎ乾かすように伝えていた。
再び襖を閉めて戻ってきたシマは、帯を締めるのに苦労している甚の手を押さえて、代わりに帯を結ぶ。
「帯の一つも締められへんで、よう今まで日本人やってはるわ」
「……余り、着物を着た事がないんだ」
「え、……見えんけど、亜米利加人か英吉利人なん?」
「純粋な日本人だ。……家業が西洋との貿易商をしている。幼い頃から洋服を着せられていた」
促されて座ると、シマもその傍らに座った。
熱燗を酌しながら、時折着物の裾で拭えなかった水滴が髪から垂れるのを、吸い取る。
「したら洋酒の方が良かったんかなぁ。ここ普通の酒しか置いてへんねん」
「いや、……温まる。ありがとう」
気付かなかったが、自分の身体はよっぽど冷えていたらしい。
熱燗の酒を喉に流し込んで漸く、熱が通った気がした。
「不思議な人やなぁ」
「……ん」
「俺、一見さんてよう取らんねん。特にあんたみたいな遊び慣れしてへんようなお人はな」
空いた杯に酒を注ぎ足して、シマが甚を見詰める。
見透かされるような気がして、……けれど、目を逸らせない。
甚から言わせればシマの方が不思議な存在だった。
連れて行かれたくなくて、半ば勢いで呼び止めてしまったと言うのも、間違いではない。
暫く無言の酌を重ねて、漸く甚は口を開いた。
「『シマ』とは、本名か?」
「は」
「……もしかして聞いてはいけない事だったのか」
シマが瞠目してしまったので、甚はそう続けた。
はは、とまた笑われた。
「面白いお人やなぁ。女郎の名前なんか、何でもええやないですか」
「……そう言う、ものなのか」
「名前の由来なんか聞いたかて、する事は皆一緒や。あんたまさかここが何する所なのか、知らんでおるん」
「知ってはいる。……だがそれだけだ」
雨の音が響く。
また酷くなっている。
シマが酌をしようとする手を抑えて、その目を見詰め返す。
「先刻の言葉はなんの意味だ」
「んー?……あー、何か色々背負うてはるなぁ、と思うて」
「……」
「判んねん。なんとなく。顔とか見たり、触ったりしてるとそん人の抱えてるもんが」
「……生憎睡眠は摂っているつもりだ」
「夢は見はる?」
「夢……?」
そう、夢、と歌うようにシマは紡いだ。
人は寝ている時に夢を見る事があるらしい。
願望や、記憶に眠る情報を引き出して、電影を見るように。
多くは目覚めると忘れてしまう。
だが時折、その内容を覚えている事がある、と聞いた。
「……見たことがない」
「そりゃつまらん。寝て見る夢ほど、金かからんと自由になるもんはないで」
「そう言うものか」
「何も知らんのやな」
「識ってはいる」
「でも、知らんやろ」
シマの言葉は明け透けに甚に向かって発せられる。
その口調は甚の知っているどんな言葉よりも烈しく、そして柔らかい。
何故だろう。
「心地好い」と思った。
「もしも俺が夢を見るなら、シマの夢がいい」
きっと、それも心地好いのではないか。
きっと、それも紅い。
そう言うと、シマはまたきょとんとした。
また笑われるな、と思ったが、予想に反してからかったような「はは」と言う笑いは、シマの口から出てこなかった。
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